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2025.06.06 コラム

大阪・関西万博訪問記(その1)

4月13日より開催してはやくも1か月以上たつ大阪・関西万博には、筆者が深く関わっているアイルランドが単独のパビリオンを出展している関係ですでに3度ほど訪問していますが、その際に感じたことや万博の魅力、訪問時のこつ等について、今後ご案内できればと思います。

 

開催前には全般的にメディアから辛口の批判ばかりが目立った大阪・関西万博2025(正式名:2025年日本国際博覧会)は、たまたま大阪で実施されるだけであって、本来名称の通り日本の博覧会であり、国中で盛り上がるべきイベントで、そもそも最初の維新と政権の政治的思惑から始まり、資金面・運営面でも数々の問題が噴出して関西圏を除けば、ほとんど認知度が低く、悪評判ばかりが目立ちました。
しかし、いざ始まってその具体的な内容が明らかになりパビリオンやイベントの具体的な魅力が発信されるに連れて、評判が上がっている現状ではないかと思います。
入場者数も最初こそ予定より大幅に少ないというようなネガティブキャンペーンの嵐から、今は徐々に入場数が増えてきており、混雑ぶりも目立つようになってきています。

 

例えば、海外パビリオンで最も人気のあると言われているイタリアパビリオンは、カラバッジョの名画やミケランジェロの彫刻が持ち込まれていて、実際の美術館のように直接実物が見れる等素晴らしいパビリオンですが、私が4月に訪問したときは、予約して入りましたが、予約なしでもその時は、1時間ほど待てば入館できた時もあったのに、最近の情報では予約なし訪問では、4時間待ちという話も出ており、予約自体も取りにくくなっているようですので、それだけ来場数が増えてきていて、口コミで人気のパビリオンは益々入りにくくなってきているのが現状と思われます。

一方で、人気パビリオン以外で気軽に入れる国のパビリオンや展示も多く、万博会場内を気軽に歩くだけで色々な国のイベントが行われているスペースもあちこちにあり、またギネス記録で世界最大の木造建築物と認定された素晴らしい大屋根リングの上をぶらぶら散歩して(1周徒歩40分程度かかかります。)
パビリオンの外観を眺めるだけでも楽しい雰囲気を味わうことができます。さらには、昼夜のウォーターショーや夜のドローンショーは予約してなくてもリング上からも見れる楽しめる毎日のイベントです。

 

ところで大阪・関西万博のメインテーマをご存知でしょうか?
ほとんどの人は、知らないと思いますが、「いのち輝く未来社会のデザイン」がメインテーマであり、未来の新しいテクノロジーを具体的に目の前で見れることでも筆者としては非常に楽しく、例えばマツコデラックスのアンドロイド作成で有名な石黒博士がプロデュースした「いのちの未来」パビリオンでは、実際にアンドロイドの実物を見ましたが、鉄腕アトムではありませんが、実際に人型のロボットやアンドロイドが身近にいる未来が目の前まできていることを実感できたりしました。

また、若い世代にとっては、特に様々な海外の国の存在、文化、食や人々を身近に体験できるということだけでも、非常に価値があることを訪問して改めて強く感じました。

 

その辺の具体的な魅力を今後多少なりともお伝えするとともに、ただ良いことばかりでなく運営面での問題点もまだ多く訪問する際の注意事項や回る際のこつについても知っている範囲でお伝できればと思いますので今後お見逃しなく。

Y.T.

 

筆者が関係するアイルランドパビリオン

 

イタリアパビリオンのカラヴァッジョの名画(バチカン美術館所蔵)

 

人気No.1ガンダムパビリオンの実物大ガンダム

2025.04.18 コラム

西郷(せご)どん

1877年2月1日、明治政府を下野して鹿児島県小根占村(現南大隅町根占)で兎狩りをしていた西郷隆盛のもとに、
「明治政府に不満を抱く旧薩摩藩士たちが、鹿児島市にある兵器庫を襲って挙兵した。」との情報が届いた。西南の役の勃発である。
明治政府の大久保利通らが、西郷を暗殺するために密偵を放ったとの噂が流れ、西郷らの反対を押し切って、周囲が暴発してしまったのである。

西郷は、その時小根占村の平瀬という家に宿泊しており、「しもた!(しまった!)」と叫んだ。
その後西郷は担がれて参戦し、西郷軍6,765名、官軍6,403名の戦死者を出して、その年の9月に終結した。
西郷は亡くなった後も、「西郷(せご)どん」とか「西郷(せご)さあ」と呼ばれ、今でも鹿児島の人々に敬愛されている。

 

私の母の祖母方は、実家が小根占村の地主のひとつで、西郷が兎狩りをする際に、下僕や犬を連れて宿泊したことがあり、
お礼にと外套と短刀をもらったらしい。

ところが、1960年頃に大学教授と名乗る人が訪問してきて、調査のためにそれらを預かりたいと申し出た。
祖父は、鹿児島市内から養子に入ったのだが、大変なお人好しで、相手の身元も確認しないまま、それらを渡してしまった。
そして、それっきり戻っては来なかった。

私が生まれたころ、祖父母はすでに別居しており、ことあるごとに祖母がこの話を持ち出しては、祖父を叱責した。
養子でありながら、大切な家宝を失うとは、と。

 

振り返ると、明治政府設立に貢献した薩長であるが、長州は今も総理大臣を輩出するなど、政府の重責を果たしているのに対し、薩摩は1923年の第二次山本権兵衛内閣を最後に、ほとんど政治の表舞台に立っていない。

時々飲みの席でそんな話になると、鹿児島の人たちは「薩摩の英傑は西南の役でことごとく亡くなってしまい、今はろくな奴が残っていないから。」と自虐的に笑う。
それほどまでに、西郷どんは薩摩の巨魁であった。

Y.I.

2025.04.04 保険時事トピックス

スターバックス火傷米国訴訟で5000万ドルの巨額賠償金評決

2025年3月14日、大手コーヒーチェーンのスターバックスのホットドリンクで大やけどを負った事故の損害賠償請求訴訟で、米国カリフォルニア州上級裁判所の陪審団は5000万ドル(74億円)の巨額評決を下しました。

 

Michael Garcia -v- Starbucks訴訟:事故と訴訟の概要

2020年2月にスターバックスのドライブスルーでフードデリバリー「ポストメイツ」のドライバー、マイケル・ガルシアMichael Garcia 氏(当時25歳)がホットティー(ラージサイズ500ml)3つを受け取り、そのうち一つがひっくり返って膝と局部に3度の大やけどと性機能の損傷を負いました。ドライブスルーのビデオによりカップをトレイに固定せずに渡したスターバックス店員の100%過失が認められ、最終弁論における原告の1億2000万ドル(178億円)の賠償要求を受けて、2025年3月14日に陪審団はスターバックスに対して5000万ドル(74億円)の賠償評決を下しました。評決額の内訳は不明ですが、大部分は懲罰的賠償と思われます。なお、被告スターバックスは不当な評決額であるとして控訴の意向を表明しています。

 

類似訴訟:1994 Stella Liebeck -v- McDonald’s訴訟

この判決は、有名な1994年マクドナルドコーヒー訴訟の再来として注目を浴びています。マクドナルド訴訟(Stella Liebeck対McDonald’s訴訟)は、1992年にStella Liebeck(当時79歳)がマクドナルドのドライブスルーで買ったホットコーヒーを膝の間にはさんで、蓋を開けようとしてこぼして大やけどを負い、マクドナルドをニューメキシコ連邦地裁で訴えたものです。1994年に、陪審団はステラ原告の寄与過失を20%認定した上で、286万ドル(当時3億円)の評決(うち補償賠償16万ドル/1680万円、懲罰的賠償270万ドル/2億8400万円)を下しました。この訴訟は1994年当時大きな話題を呼び、これを契機に全米の濫訴を批判する「ステラ賞」(Stella Award)なるものが発足したほどなのですが、結果的にはマクドナルド被告の上訴途中に(推定)30万ドル(3150万円)で法廷外和解が成立しています。

 

スターバックス訴訟の今後の予測と「ファストフード訴訟」に及ぼす影響

5000万ドルで敗訴したスターバックスはカリフォルニア州巡回控訴裁判所に上訴しますが、控訴審では一審評決が州法の懲罰的賠償の要件に合致していたかどうかが争点になるものと思われます。控訴された訴訟の多くは、控訴審の途中で当事者間の法廷外和解で終結するのですが、その場合、和解内容は非公表で、公的には5000万ドルの一審評決だけが残ります。原告弁護士業界は、このスターバックス訴訟をファストフード訴訟の新たなベンチマークとして大々的に宣伝し、類似の被害者を掘り起こしてファストフード訴訟の再流行を目指しています。

 

2025年4月3日

A.R.M.S. Consulting Co. Ltd.  (文責  T.I.)

2025.02.07 コラム

ケルトの国―アイルランド小噺 《銀座を設計したアイルランド人?》

前回は、初代「君が代」を作曲したアイルランドにゆかりのあるジョン・ウィリアム・フェントンをご紹介させていただいたが、
もう一人明治初期に日本に影響を与えたアイルランド人をご紹介させていただきたい。

 

その名をトーマス・ジェームズ・ウォーターズといい、アイルランドのオファーリー県のバーの生まれである。
職業は、土木技術者で明治初期に活躍したお雇い外国人の一人である。
香港の英国造幣局の建設に関わった後、香港から鹿児島に渡り、叔父の知り合いだった長崎のグラバー亭で有名な
グラバーの紹介で当時薩摩の鹿児島紡績所の工事に関わった後長崎に行きグラバーのもとで働いた。

 

明治維新とともに貨幣司として雇用され大阪の造幣寮応接所(現泉布観)や造幣局鋳造所正面玄関を建設したことから
大隈重信の信任を得て上京して、大蔵省に雇用された。
その当時1872年に東京で発生した銀座大火と呼ばれる大火災で東京の中心地の丸の内、銀座、築地一体が焼失したことを受け、
明治政府が銀座を耐火構造の西洋風の街路に大改造することを決めた。
銀座に煉瓦造りの建築物を建てたり、現在の銀在大通りを欧米の目抜き並みに拡張する都市計画を立て、
その設計を全面的に担ったのが、ウォーターズである。

 

すなわち、今の銀座の基礎を設計した人物がアイルランド人であり、
現在は銀座煉瓦街は関東大震災や大戦の影響でその当時の建築物は残念ながら現存していないが、
銀座のモダンでおしゃれな街の基礎をデザインしたのがアイルランド人だったというのが実に興味深い歴史のご縁である。

日本で最初の煉瓦を焼くためのホフマン窯という施設を作ったのもウォーターズであり、
明治初期の建築物の近代化を支えることとなった。
日本の近代建築の系譜の一部は、ウォーターズから始まりコンドル(鹿鳴館、上野博物館等を設計)、
辰野金吾(東京駅や日銀本店を設計した日本近代建築の父)へとつながっていくと言われることもあるようである。

Y.T.

2025.01.10 コラム

軍艦島クルーズ

昨年11月、大学時代の友人3人と長崎を旅行し、軍艦島へ行ってきました。
2015年の世界文化遺産登録ですっかり有名になった軍艦島は、
長崎の沖合19kmにある端島(はしま)の通称で(軍艦の形に似ているので軍艦島と呼ばれる)、近くの海底炭鉱を掘るため、
1893年から約40年かけて埋め立てが行われ、半人工島となり、最盛期には、約5300人が住む街となりました。
しかし国のエネルギー政策の転換のため、今から丁度50年前に廃坑となり、
同時にこの町は一瞬のうちに無人島になったというのが簡単な歴史です。

軍艦島クルーズは、世界文化遺産登録前から人気のようで、現在はクルーズ会社5社が参入し、どれも結構にぎわっています。
私はシーマン商会という会社の、やや小ぶりの船に乗って、出島近くの埠頭から軍艦島まで40分。
海の荒れ具合によっては、上陸できないこともあるとの説明でしたが、無事上陸。
島には沢山の建物が廃墟と化して残っていますが、世界文化遺産に登録された明治の建物以外は全く放置されているため、
いつ崩れるかわかりません。
従って、我々観光客は、建物が崩れても心配ない外側の通路を歩いて、当時の面影を忍びます。
東京ドームグラウンド5個分の小さな島ですが、最盛期には何棟ものアパートや学校や病院があり、
一つの街となっていたとは信じられません。

 

旅から戻って知ったのですが、軍艦島は今ブームのようで、昨年の10月からTBSのドラマ「海に眠るダイヤモンド」が放映されており、
また、12月2日には、サンドイッチマンやタカトシが軍艦島を巡る番組(「帰れマンデー、見っけ隊」)が放映されました。
私のツアーで歩いた場所は、建物崩壊の危険がないほんの一部でしたが、サンドイッチマンたちは、ヘルメットをかぶり、
建物群の奥の奥まで潜入していました。
当時の映像なども紹介され、生きた「端島」が映し出されました。

採炭開始から約90年、町ができてから約60年の端島は、1974年、私が大学に入学した年に炭鉱が閉山となり、無人島になりました。
5000人の町が一気にゴーストタウンになるというすごい歴史です。
そこで芭蕉の句をもじって一句、「やれ掘れや 炭鉱の島 夢の跡」おそまつ。

J.I.

2024.12.27 コラム

ケルトの国―アイルランド小噺《日本の国歌「君が代」とアイルランドの関係??》

前回は、今回アイルランドで最も著名な聖人である「聖パトリック」を取り上げることをお約束していたが、
聖パトリックに関わる国民的な祝日が3/17であることから、
よりその日が近づいてきたタイミングから掲載をさせていただいた方が
日本でのイベントの最新の情報も含めてより身近に感じていただけると思うので、
前言を撤回させてもらって別の話題を取り上げさせていただきたい。

 

日本の国歌「君が代」。オリンピックの金メダル表彰でこの曲が流れると多くの日本人の方が、
心震える思いをいだく我々の心のよりどころのような音楽であるが、
皆様の中で毎度聞き、口ずさむこの「君が代」が実は二代目の「君が代」であることをご存知の方はどれ位いるだろうか?

 

実は、今の「君が代」は、二代目の国歌で、初代の「君が代」が実在している。
その初代の作曲者の名前をジョン・ウィリアム・フェントンと言い、
筆者も訪れたことがありアイルランドで最も好きな街のひとつでもあるアイルランドのコーク県キンセール生まれである。
厳密にいえば当時アイルランドは、イギリスの統治下にあったのでイギリス人として語られることが多い。
フェントンは、明治維新の年である1868年に英国海兵隊大10歩兵連隊第一大隊の楽長として横浜に到着、
翌1869年に薩摩藩士に軍楽伝習を始めた。

日本で初めての吹奏楽の練習として知られている。
楽隊が1870年に明治天皇の御前で初演奏する際、フェントンは、急ぎ「君が代」の歌詞に曲をつけて礼式曲を作曲した。
このフェントン版「君が代」は現在皆さんが唱和される現在の「君が代」ができるまでは、国歌として受け入れられていた。
フェントンは、日本吹奏楽の父としても日本の音楽界に大きく貢献した人物としても知られている。

 

もし、このフェントン版の初代「君が代」を試しに聞いてみたい方は、You Tubeの以下のサイトから聞けるのでお試しあれ。
現在の「君が代」と全く異なる楽想に驚くこと必定である。

 

Y.T.

2024.12.13 コラム

武士道とは“BUSHIDO”と見つけたり?

今、混迷の度合いを増々深めている世界情勢ですが、とにかく一日も早く各地の紛争が解決され、
平和が実現されることを世界中の人々が願っていることは間違いないと思います。

 

ところで、戦前に国際連盟という機構があったという事実は、皆様よくご存知と思います。
第一次世界大戦の惨禍の経験から、国際紛争を回避するための世界的な枠組みを作ろうという理想のもと、
1919年に発足したわけですが、歴史の教科書など紐解いてみますと、やはりその実効性については否定的な見解が多いようです。
確かに、最終的には第二次世界大戦を防ぐことも出来なかったわけですし、
結果だけで判断する限りでは、十分に機能したという評価は難しいかもしれません。
ただ、その中にあっても、実際に国際紛争を回避、解決した事例は、いくつかあったようです。

 

フィンランドとスウェーデンの間にオーランド諸島という島があります。
1923年、この島の領有権をめぐり、両国の間に緊張が高まりました。
細かい経緯は省略しますが、最終的にこの問題の解決は国際連盟に付託されることとなり、
本件の解決に奔走した当時の事務次長の裁定案が正式に採択され、
この領土問題は紛争に至ること無く、平和裏に解決されたのです。
この問題を担当し、解決に尽力した国際連盟事務次長こそ、新渡戸稲造という一人の日本人でした。

 

折しも今年は新札発行の年ですが、二代前の五千円札のモデルにもなった新渡戸稲造は、勿論誰もが知っている人物ですので、
その業績についてここで字数を連ねることは差し控えますが、その中で一つ、
個人的には、英語で“BUSHIDO”という本を著したことが、強く印象に残ります。
日本語で説明しろと言われても難しい武士道という、幅広く奥深い価値観を、英語で一冊の本に書き記したということ自体、
日頃から英文に悩まされることの多い筆者としては、もはや超人的な偉業に思えます。
江戸時代に生まれた人間が、日本人の深層に連面と受け継がれている根源的な価値観について外国語で世界に発信し、説明する。
そして国際政治の舞台で堂々とリーダーシップを発揮し、非常に複雑かつ危険に満ちた領土問題に取り組み、
見事に平和的な解決をまとめ上げてしまう。まさに驚くべきことと思います。
この人物の能力と卓見の、せめてその1%でも自分に恵まれていたら、と思わずにはいられません。
と同時に、国際社会における日本人のプレゼンスという面で、大きな足跡を残してくれた先達に対し、
尊敬と感謝の念を忘れないようにしたいと思うものです。

 

それにしても、後世の教科書には、国際連合はどのように記載されるのでしょう。
歴史の評価を待つのみですが……

M.M.

2024.11.29 コラム

ハロウィン

10月末に、5歳と3歳の孫を連れて、東京ディズニーランドに行ってきました。
ちょうどハロウィンの時期で、ディズニーランドは大変な混雑でしたが、何といっても驚いたのは、仮装をしている入場者の多さです。
初めはディズニーランドのスタッフかと思いましたが、スタッフがそんなに沢山いるわけがありません。
入場者がそれぞれのキャラクターに扮して、堂々と園内を練り歩いています。
外国人も負けてはいません。西洋人の女性がシンデレラや白雪姫の格好で歩いていると、本当に様になります。

 

しかし、私が駐在した時代には、アメリカやイギリスで、ハロウィンの時期にこんなに大人が仮装して集まるところはありませんでした。
ハロウィンはあくまで子供の行事でした。
アメリカ駐在時代は(1980年代終盤から1990年代前半)、この日(10月31日)だけは早めに帰宅して、
子供の手を引いて近所の家を回りました。
普段外からしか見ることのできない豪邸のドアを叩いて、子供にTrick or treat!と言わせ、
ドアがあくと、子供がお菓子をとっている間に、中はどのようになっているのか見るのが楽しみでした。
いずれにしても子供中心の素朴なお祭りだったと記憶しています。

 

ところが、現在の日本のハロウィンは欧米のハロウィンとは全く違います(今はどうなっているかわかりませんが)。
日本のハロウィンはいつの間にか、子供の行事ではなく、大々的な大人のお祭りになっています。
渋谷のスクランブル交差点に限らず、全国のあちらこちらで結構な騒ぎになっています。
日本のハロウィンを目当てに外国から来る人も多いと聞いています。
これは子供の行事ではなく、正に日本人の季節の一大イベントです。
これを見て私は、日本人は、子供の行事や祭りを(しかも外国の)大人の文化にしてしまう凄い国だと思いました。
アニメも良い例です。日本のアニメは世界中にファンを広げ、アニメの聖地やグッズを求めて、世界中から日本に観光客がやってきます。
このような文化、即ち子供の世界を大人の文化に昇華させる文化は(これを文化と呼んで良いのかわかりませんが)、他の国にはありません。
ディズニーの世界が唯一の例外でしょうか。
日本人の大人が、いつまでも子供っぽさを残しているという言い方もできるのかもしれませんが、
それが世界の若者の共感を呼び、Cool Japanとして一つの潮流になっているのです。
100年後の歴史家は、日本発の「あの」文化は21世紀初頭に始まっていると言うかもしれません。
J.I.

2024.11.15 コラム

ケルトの国―アイルランド小噺《アイルランドの祝祭日(2) 聖ブリジッドデー② 》

今回は前回に引き続き「聖ブリジッド」とはアイルランドにおいてどういう存在であるかについてご案内させていただきたい。

ケルトの女神に由来するとされる聖ブリジッド(St Brigid)は、聖パトリック、聖コラムキルに並ぶアイルランドの3大守護聖人のひとり。
「ケルトのマリア様(Mary of the Gael)」の異名を持つ人気の聖人で、5世紀にアイルランド初の女子修道院を開き、
生涯にわたり貧しい人や病める人のために祈り、施しを捧げたと伝えられている。

 

修道院建立にまつわるブリジッドと布(ショール)の以下の伝説が有名である。
修道院建設のための土地をください、とケルトの王に願い出るも、王はなかなか首をたてにふらなかった。
そこで「私が身にまとっているショールで覆えるだけでよいからください」と王を説得。
承諾を得たブリジッドは4人の修道女に広げたショールの四隅を持たせ、東西南北へ駆け出すよう指示する。
すると布がどんどん広がり、カラ(Carragh=アイルランドのキルデアに隣接する平原)全体を覆いつくしてしまい、
その広大な土地に修道院を建てた…と伝えられている。

ブリジッドはそこで作物を育て、家畜を飼い、乳製品を作り貧しい人に分け与え、病人を癒し、
金属細工の工芸学校まで開いたと言われていることから、経営手腕にも長けていたようである。
驚くべきことは、男性修道士用の修道院も隣接させて、お隣り同士で共同作業をしていたこと。
修道士、修道女は貞操を守り結婚しないことから、独身男性、独身女性が清く正しく暮らしていたのだろうか。
内情はともあれ、その当時としてアイデアとしては驚くほど進歩的で、その後アイルランド各地に修道院を建設し、
時にはスコットランドやイングランドへも修道女たちを引き連れて巡礼と施しの旅をし、
病める人のために忙しく活動したというその生涯は、まるで5世紀のスーパーウーマンといっても過言ではない!

 

そのような女性活躍、ダイバーシティの元祖ともいえる活躍から聖ブリジッドのアイルランドでの人気は高く、
近年女性の権利や活躍のアイコンとされてきている聖ブリジッドに

ちなむ2月1日が、国民の祝日となったことは、アイルランドがダイバーシティ、
ジェンダー先進国であることを象徴するような出来事と言える。

ちなみに、日本においても筆者が役員を務めている在日アイルランド商工会議所とアイルランド大使館では、
この記念すべき日に本年より共同で“女性活躍”にフォーカスしたイベントを開始したことを最後にご参考までに付記しておきたい。

それでは、次回以降は、アイルランドの国民的な祝日、祭日として世界的に有名な“セントパトリックスデー”の中心人物である
「聖パトリック(St. Patrick)」についてご案内させていただきたい。

Y.T.

2024.11.01 コラム

2024 パリオリンピック雑感(その2)

結局7月26日の開会式はホテルのテレビで見る羽目になり、翌日から8月1日まではスペインへの小旅行を経て、
8月2日から本格的に競技を観戦することとした。
観戦第一日目は男子バレーボール予選ラウンドの日本対アメリカであった。
試合前の練習コートでは石川祐希選手や西田有志選手、高橋蘭選手らのご尊顔を近距離から生で拝ませていただいたが、
国内ではなかなかこういった機会はないだろうなと思った。
試合が始まり第一セットの途中で照明が全部落ちて対戦が約3分間中断するというハプニングがあった。
生本番で停電が発生する事態を見たのは、子供の頃のドリフターズの「8時だよ全員集合」の生中継での停電以来である。
観客が手持ちのスマホのライトを点けながら大きく揺らして試合の再開を促していたが、
その場面はビッグアーティストのコンサート会場を彷彿とさせた。これも貴重な体験か。

 

日本チームの前評判は上々でメダル獲得も期待されていたが、この日は結局アメリカから1セットしか奪えず完敗であった。
最終成績も第7位で残念ながらメダルの獲得はならず、対戦したアメリカは第3位で銅メダルを獲得した。

 

停電中のバレーボール会場(Arena Paris Sud 1)

 

T.H.